覚恕(かくじょ)
僧・天台座主[日本]
(天正2年1月3日没)
(ユリウス暦) 1574年 1月25日 死去享年53歳
覚恕(かくじょ)は、日本の皇族。
戦国時代の天台宗の僧。
天台座主。
父は後奈良天皇。
母は壬生雅久の娘伊予局(三位局)、もしくは刑部卿和気親就の娘。
後世しばしば「覚恕親王」「覚恕法親王」と尊称されるが、実際には親王宣下を受けていない。
正親町天皇の異母弟に当たるとされているが、実際には異母兄であるとみられる。
略歴=
後柏原天皇の皇子知仁親王(後奈良天皇)の皇子として生まれる。
大永5年(1525年)延暦寺の子院曼殊院門跡慈運を師として得度し、天文6年(1537年)慈運の死に伴い門跡と北野天満宮別当を相続。
天文22年(1553年)常陸千妙寺から住持亮珎を招き、台密三昧流の灌頂を受けている。
弘治3年(1557年)准三宮の宣下を受けて金蓮院准后と称された。
永禄5年(1562年)伏見宮から青蓮院に入っていた尊朝法親王の得度で戒和上を務めている。
元亀元年(1570年)第166世天台座主に補任。
元亀2年(1571年)9月12日、織田信長による比叡山焼討ちに遭遇した。
織田氏と対立する朝倉氏の軍兵を公然と匿ったことが原因とされる。
覚恕は事件5日前の9月7日に参内して朝廷に相談(内容は不明)を持ち掛けており、2日後の重陽の節句にも参加している。
そのため事件当日は在京しており難を逃れたが、根本中堂以下全山が攻撃され、比叡山は焦土となった。
これにより程なく天台座主辞意を表明しているが、依然座主として扱われた。
元亀3年(1572年 ……