石川欽一郎(いしかわきんいちろう)
洋画家[日本]
1945年 9月10日 死去享年75歳
江戸から駿府に移住した旧幕臣の子として、静岡市内の浅間神社の近くで生まれる。東京に移って逓信省東京電信学校に学び、ここで洋画家小代為重の教えを受ける。大蔵省印刷局勤務の傍ら、水彩画を独習、明治美術会に出品。知人渡辺鍬太郎が自来集を組織した処から、これに参加、浅井忠の指導を受け、また明治30年頃の集いで川村清雄を知る。明治美術会解散後は、川村の巴会結成に参加。1900(明治33)年に陸軍参謀本部の通訳官として義和団事件に従軍して負傷。日露戦争より戻った1905(明治38)年に大下藤次郎を尋ね、以後大下の主宰する『みずゑ』に百十余編の文章を寄稿、外国文献からの翻訳でアルフレッド・イースト他英国水彩画の紹介に努めた。1907(明治40)年の第1回文展を初めとして幾度か文展にもその名を記し、1913(大正2)年日本水彩画会の創立に参加、また光風会にも出品し、晩年は日本水彩画会の長老格として世に知られた。1907(明治40)より1916(大正5)年と、1924(大正13)より1932(昭和7)年の2期に渡って台湾で美術教育に携わり、同地の近代洋画の祖としても仰がれている。(静岡県立美術館HPより引用)
石川欽一郎が亡くなってから、79年と72日が経過しました。(28927日)