外山正一(とやままさかず)
社会学者、政治家[日本]
1900年 3月8日 死去享年53歳
外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日〈嘉永元年9月27日〉 - 1900年〈明治33年〉3月8日)は、明治時代の日本の社会学者、教育者。
文学博士。
号は丶山(ちゅざん)。
東京帝国大学(現東京大学)文科大学長・総長、貴族院議員、文部大臣を歴任した。
経歴=
父は家禄220俵の旗本で幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義。
江戸の小石川に生まれる。
幼名は捨八。
家族は武芸での功名を望んだが、正一は学問で頭角を表し、13歳で蕃書調所で英語を学び、1864年には16歳にして開成所教授方になるほど、若くしてその英才を謳われる。
外山正一 慶応2年11月1日英国留学の為め出発の途中上海にて。
時に19歳。
後列向って右より外山捨八(正一)、林桃三郎(董)、福沢英之助、杉徳三郎、億川一郎、安井真八郎、岩佐源二。
前列向って右より市川盛三郎、箕作奎吾、成瀬錠五郎、中村敬輔(正直)、レベレンド・ウィリヤム・ロイド、川路太郎(寛堂)、伊東昌之助(岡保義)。
最前列箕作大六(菊池大麓)。
勝海舟の推挙により1866年(慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。
幕府の瓦解により1868年(明治元年6月)帰国。
主家徳川氏の駿府移封に従い静岡学問所教授を務めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ、森有礼少弁務使の秘書として、南北戦争後の復興期アメリ ……
外山正一が亡くなってから、124年と258日が経過しました。(45549日)