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牟礼慶子 氏(むれけいこ)

詩人[日本]

2012年 1月29日 死去脳梗塞享年84歳

牟礼 慶子(むれ けいこ、1929年〈昭和4年〉2月1日 - 2012年〈平成24年〉1月29日)は、日本の詩人・教師。
主な著作として『見えないだけ』『鮎川信夫 路上のたましい』『満身創痍』『夢の庭へ』など。
本名は谷田慶子で、ペンネームの牟礼は三鷹市の牟礼町に因む。
夫は堀辰雄の研究者で「新潮」の編集長なども務めた、文芸評論家の谷田昌平。
2012年、82歳で脳梗塞のため死去。
生涯= 東京府出身。
4人兄弟の長女として生まれる。
出生名殿岡慶子。
東京市立啓明小学校、 東京都立北野高等女学校、 實践女子専門学校(現在の実践女子大学)国文科卒業。
学生時代は井坂洋子の母親らと回覧雑誌に参加して短歌を作っていたが、のちに詩に転向した。
「流動の会」に所属していた。
1948年、教職職員免許状を取得。
同年より杉並区立杉森中学校教諭を務める。
1年後退職し来阪、南河内郡藤井寺町立小学校教諭となり同時期に同人誌『青銅』に参加する。
青銅3号に発表した『山羊』が注目を受け、『詩学』の新人特集号に 『ポプラ』を発表。
この頃茨木のり子とも交流を持った。
また1951年9月26日に7年前から婚約していた谷田昌平と結婚し、谷田慶子となる。
2年ほど小学校教諭を務めたのち、夫の都合により帰京する。
帰京後、1954年に中野区立第十中学校に国語教師として赴任。
この頃同人誌『荒地詩集』に参加、鮎川信夫に師事。
中野区立第十中学校に13年勤めた後、19 ……

牟礼慶子さんが亡くなってから、12年と297日が経ちました。(4680日)

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