立原正秋 氏
作家、随筆家、詩人[日本]
1980年 8月12日 死去食道がん享年55歳
立原 正秋(たちはら まさあき、金胤奎、キム・ユンキュ、김윤규、1926年1月6日 - 1980年8月12日)は、朝鮮半島出身の日本の小説家・随筆家・詩人・編集者。
人物=
1926年(大正15年)1月6日、朝鮮の慶尚北道安東郡で生れた。
自著などでは大邱市生れとされていたが、武田勝彦や高井有一の調査によると、安東郡である。
早稲田大学専門部国文科中退(入学時は法律学科)。
小林秀雄を導き手として世阿弥の芸術論や謡曲をはじめとする中世の日本文学に深く沈潜し、「中世」をみずからの創作活動の原点とした。
父の死後、母が再婚して渡日したため、叔父(母の弟)の家などに引き取られて育ち、その後、1937年(昭和12年)の11歳のときに内地(日本)に渡り、母たちと同居し横須賀で育った。
戦後は、丹羽文雄主催の『文学者』に参加し、小説を書き始め、「薪能」(1964年)、「剣ヶ崎」(1965年)が芥川賞、「漆の花」(1965年)が直木賞候補となり、みずからを「純文学と大衆文学の両刀使い」と称して流行作家となる。
1966年(昭和41年)、「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。
大人の愛を描いた小説で人気を集めた。
編集者としても、同人文芸誌『犀』刊行の中軸を担い、また、第7次『早稲田文学』の編集長を務めるなどし、吉田知子、古井由吉ら多くの作家、評論家を世に送った。
食道癌で亡くなる2か月前に、ペンネームだった「立原正秋」への正式な改名が認められ、本名になった。
立原正秋が亡くなってから、44年と101日が経過しました。(16172日)