母里太兵衛(ぼりたへえ)
戦国武将[日本]
(慶長20年6月6日没)
1615年 7月1日 死去享年60歳
母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
黒田氏の家臣。
通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。
幼名は万助。
但馬守を称す。
槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。
黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。
また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。
「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。
なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。
生涯=
母里氏は、出雲国の尼子氏に繋がる。
播磨国の国人であり、
母里太兵衛が亡くなってから、409年と141日が経過しました。(149528日)