野田高梧(のだこうご)
脚本家[日本]
1968年 9月23日 死去心筋梗塞享年76歳
野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19日 - 1968年(昭和43年)9月23日)は、日本の脚本家。
次兄は日本画家の野田九甫、娘は脚本家の立原りゅう、その夫は同じく脚本家の山内久。
また、幕末の漢学者・野田笛浦は祖父にあたる。
経歴=
『映画評論』1941年3月号より。
小津安二郎-伏見晁-清水宏-野田高梧-1928
税官吏の子として北海道函館市に生まれ、長崎県・名古屋市で育つ。
愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)、早稲田大学英文科を卒業後、映画雑誌記者・東京市職員を経て、1924年に松竹蒲田撮影所に入所。
以後、蒲田および移転した大船撮影所で、現代劇の中心的脚本家として活躍し、小市民の生活を味わい深く描いたいわゆる「大船調」の代表的存在となる。
島津保次郎・五所平之助監督などの作品で数々の名作を生み出したほか、小津安二郎監督とも処女作『懺悔の刃』(1925年)以来繋がりが深く、『その夜の妻』(1930年)、『足に触った幸運』(1930年)、『東京の合唱』(1931年)などの脚色を担当した。
なお、小津とは私生活でも親交が深く、その後も公私にわたって良きパートナーとなる。
また、野村浩将監督と組んだ『愛染かつら』(1936年)は空前の大ヒットとなり、興行収入でも当時の記録を更新した。
さらに所内では脚本部長も長く務め、所長の城戸四郎の顧問的存在でもあった。
1946年にフリーとなる。
やはり小津安二郎作品で最大の持ち味を発揮し、小 ……
野田高梧が亡くなってから、56年と59日が経過しました。(20513日)