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一山一寧(いっさんいちねい)

元の禅[元]

(建長寺・南禅寺などの住職となる、文保元年10月24日没)

(ユリウス暦) 1317年 11月28日 死去享年71歳

一山一寧 - ウィキペディアより引用

一山一寧(いっさん いちねい)は、元の渡来僧。
俗姓は胡。
台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。
寧一山ともいう。
略歴= 幼くして出家し、律宗・天台宗を学んだ後、臨済宗に転じ、天童山や浄慈寺などで修行を積み、阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだ。
その後、環渓惟一らに参禅を続け、諸所を遊方した。
二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。
当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓如智が使者に選ばれた。
弘安5年(元の至元19年/1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(至元21年/1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。
『雪夜作』正和4年(1315年) 建仁寺蔵 永仁2年(至元31年/1294年)、世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓如智に三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。
成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。
正安元年(元の大徳3年/1299年)秋、一寧は門人一同のほかに西礀子曇を伴って日本に渡った。
西礀子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。

「一山一寧」と関連する故人