錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ)
陶業家・七代目[日本]
(京焼の工房の窯元として生まれ、「錦光山」ブランドで世界に輸出)
1927年 6月20日 死去享年60歳
錦光山 宗兵衛(きんこうざん そうべい)は、日本の京都で代々続いた京焼(粟田口焼)の陶工。
三代の喜兵衛(安兵衛)のとき錦光山と号し、六代からは錦光山を姓とした。
京都の粟田口で窯業を営んだ。
概要=
江戸時代前期の正保二年(1645年)頃に、初代徳右衛門が粟田口にて創業したといわれている。
姓は小林、鍵屋と号した。
四代喜兵衛、五代與兵衛(よへえ)の兄弟が相次いで没したため、與兵衛の息子の文三郎は丸屋長兵衛の養子となり、十五歳で家督を相続して六代錦光山宗兵衛となった。
幕末期の当主であった六代錦光山宗兵衛は開国に伴い輸出に目を向け、その息子の七代錦光山宗兵衛は明治・大正期の企業家として「錦光山」の名で多くの作品を残した。
七代錦光山宗兵衛は、父(六代錦光山宗兵衛)が輸出事業に積極的であったところから、若くして家業を継いで、京都の製陶業振興に貢献した。
そして、薩摩焼に京焼風の絵付けをした「京薩摩」や、陶器を胎に用いた陶胎七宝などを手掛けて、「錦光山」のブランドで欧米をはじめ世界に輸出した。
薩摩焼と同じ色絵金襴手を作り、それを一層精緻にして、しばしば外国へも視察に出かけ輸出に成功した。
陶磁試験所や陶磁器伝習所の設立に尽力し、ここから若い俊秀を輩出した。
錦光山系図=
初代:鍵屋徳右衛門 (1693-1770年、正保の頃、京都粟田に開窯。
七十八歳)
二代:鍵屋茂兵衛 (1718-1 ……
錦光山宗兵衛が亡くなってから、97年と155日が経過しました。(35584日)