早川尚古斎 氏(はやかわしょうこさい)
竹工芸作家[日本]
2011年 12月7日 死去肺炎享年80歳
1932(昭和7)年6月12日、竹工芸家四世早川尚古齋の長男として大阪に生まれる。本名修平。初代は越前鯖江に生まれ、京都で修業したのちに大阪で名を馳せた籃師である。45年大阪空襲で2度の戦災に遭い、京都市右京区に居を移す。51年、京都府立山城高等学校卒業後、父のもとで修業に入る。号は尚坡。見て覚えろと言われ、時には四世の籃をほどいて独習した。その後、早川家に伝わる伝統的な鎧組、そろばん粒形花籃、興福寺形牡丹籃の3種類の形を習得し独立が許され、65年初めての個展を大阪三越で開催する。この時、今東光の命名によって尚篁と改号する。翌年、第13回日本伝統工芸展に「重ね編広口花籃」を初出品し初入選する。76年、第23回日本伝統工芸展に「切込透文様盛物籃」を出品し日本工芸会奨励賞を受賞する。「切込透」とは早川家の伝統的な鎧組(幅の広い竹材を揃えて組む)を基本として五世早川尚古齋が考案したもので、幅広の材を部分的に細かく削り、幅の広いところと狭いところを組み合わせることにより透かし文様が表れる組み方である。伝統を踏まえた上での新たな試みが評価をされたといえる。77年、父・四世早川尚古齋三回忌を機に五世早川尚古齋を襲名する。同年、大阪美術倶楽部で襲名記念「歴代尚古齋展」を開催し、その後も京都市美術館「現代の工芸作家展―京都を中心とした―」(1978年)への招待出品、大阪大丸や大阪三越で多くの個展を開催する。82年、50歳の時に第29回日本伝統工芸展ではじめて鑑査委員を務め、その後歴任する。83年、名古屋松坂屋本店で「竹の道30年展」を開催。同年、東京国立近代美術館で「伝統工芸30年の歩み展」が開催され後に同館所蔵となる「切込透文様盛物籃」(第23回日本伝統工芸展、日本工芸会奨励賞受賞作)を出品する。その後も展覧会への出品が続き、「竹の工芸―近代における展開―」(東京国立近代美術館、1985年)や「現代作家15人展」(京都市美術館、1985年)、「心と技―日本伝統工芸展・北欧巡回展」(1990年)や「第7期 現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1990年)、「北欧巡回展帰国記念伝統工芸名品展」(大阪、名古屋、東京日本橋三越、1991年)に出品する。1991(平成3)年、以前より審査員などで活躍をしていた日本煎茶工芸協会常務理事に就任する。この頃には組技法の作品を多く出品し「組の早川」と称されるようになる。92年、京都府指定無形文化財「竹工芸」保持者に認定される。その後も「現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1995年)や京都府指定無形文化財保持者9人で開催した合同展覧会「伝統と創生」(京都府京都文化博物館、2000年)などに出品する。96年、第43回日本伝統工芸展に「透文様盛物籃」を出品し、重要無形文化財保持者から選ばれる日本工芸会保持者賞を受賞する。(引用元・日本美術年鑑 平成24年版)
早川 尚古斎氏(はやかわ・しょうこさい、本名修平=しゅうへい=竹工芸作家、人間国宝)7日午前10時25分、肺炎のため京都市の病院で死去、79歳。大阪市出身。葬儀は9日午前10時から京都市北区紫野宮西町34の公益社北ブライトホールで。喪主は長男直宏(なおひろ)氏。 父に師事して伝統の竹工芸技法を幅広く習得。65年から作家活動を開始し、77年に五世早川尚古斎を襲名した。「組み」の技法に特に高い技量を発揮。03年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。 (2011/12/07-19:28)
早川尚古斎さんが亡くなってから、12年と350日が経ちました。(4733日)