武田信縄(たけだのぶつな)
守護大名[日本]
(永正4年2月14日没)
(ユリウス暦) 1507年 3月27日 死去享年37歳
武田 信縄(たけだ のぶつな)は、戦国時代の甲斐国の守護大名・戦国大名。
甲斐守護職・甲斐源氏第17代当主。
武田氏14代当主。
武田信玄の祖父、武田勝頼の曾祖父。
室は実名不詳の崇昌院殿(広厳院殿)。
母は不詳であるが、山梨郡の国人・栗原氏の娘とする説がある。
天文14年(1545年)6月19日に死去しており、信縄の孫にあたる武田晴信(信玄)は弘治2年(1556年)11月に崇昌院殿の菩提を弔うために一宮郷(笛吹市一宮町)の地を同地の広厳院に寄進し、「崇昌院殿」の法名を「広厳院殿」と改めている。
側室に山梨郡岩下村(山梨市岩下)の地侍・岩下越前守の娘がいる。
実名・生没年は不詳で、『菊隠録』によれば法名は「桂岩妙英大姉」、死去は永正3年10月17日のこととされる(永正15年の同日に彼女の13回忌が行われているため)。
岩下氏は武田信虎の生母とする説がある。
生涯=
第16代当主・武田信昌の嫡男として生まれる。
出生地や居館は不明であるが、信昌期以来武田氏の居館が存在した石和の川田館や、信昌隠居後の居館である東郡の落合館などが考えられている。
甲斐国では室町期に上杉禅秀の乱により守護武田氏が衰退し国内外の国人勢力や守護代の跡部氏が台頭していたが、信昌期には跡部氏を排斥する一方で、郡内領主小山田氏や河内領主穴山氏など、新勢力の台頭を招いていた。
信昌は延徳3年(1491年)に落合(山梨市)へ隠居し嫡男である信縄が家督を継承す ……