浜田彦蔵(はまだひこぞう)
通訳、貿易商[日本]
(「新聞の父」)
1897年 12月12日 死去心臓病享年61歳

浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彥藏、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。
「新聞の父」と言われる。
洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。
幼名は彦太郎(ひこたろう)。
日本人で初めてアメリカ合衆国の市民権を取得した(1858年)。
帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
生誕の地碑
生涯=
播磨国加古郡阿閇村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。
幼い頃に父が亡くなり、年若い母が近村の濱田村に住む吉右衛門と再婚、異母兄の宇之吉と共に育つ。
廻船を業とする父や兄の影響から船乗りの仕事に憧れていたが、母が良しとせず、2年ほど寺子屋へ通う。
嘉永3年3月(1850年)、八百石積み和船の船乗りであった従兄弟からの誘いで、初めて四国の金毘羅詣での観光客を運ぶ和船に便乗した。
同年9月、栄力丸で江戸に向かう途中、その船が10月29日(11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。
2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月12日)に南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。
嘉永4年2月3日(1851年3月5日)、救助してくれた船員たちと共にサンフランシスコに到着。
アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出たため、嘉永5年3月13日(1852年5月1日)にサンフランシスコを出発し、5月20日(7月7日)に香港に到着する。
そこから、東インド艦隊長官・ペリーの船に同乗し日本 ……
浜田彦蔵が亡くなってから、127年と63日が経過しました。(46450日)