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若松賤子(わかまつしずこ)

教育家、翻訳家[日本]

1896年 2月10日 死去享年33歳

若松賤子 - ウィキペディアより引用

若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、日本の教育家、翻訳家、作家。
巌本善治の妻。
別名に巌本嘉志子。
バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。
生涯[編集] 1864年3月1日に、会津藩藩士松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。
本名は松川甲子(かし)であり、『甲子』の名は誕生年の干支に因む。
甲子が1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争は父不在の間、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。
なお、甲子の母に関しては詳しいことは分かっていない。
父勝次郎正義は翌年、藩の移封先、斗南(現・むつ市)へと去り、そこで行方不明となる。
また、母は1870年(明治3年)に過労がたたり、会津で28歳の若さで病気により没した。
1872年(明治3年)、6歳の甲子は若松に来ていた親戚の横浜の織物商・山城屋和助の番頭大川甚兵衛に見込まれて養女となる。
しかし、方言も土地も何もかも違う新天地で塞ぎ込みがちになってしまったため、養母の勧めもあり1871年(明治4年)プロテスタントの宣教師メアリー・エディ・キダー(Mary E. Kidder)の英語塾(のちのフェリス女学院)に入塾し、アメリカ式の教育を受けた。
そして1877年(明治10年)13歳の時、日本基督公会(のちの日本キリスト教 ……

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若松賤子が亡くなってから、128年と167日が経過しました。(46919日)

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