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伊東甲子太郎(いとうかしたろう)

新選組参謀[日本]

(慶応3年11月18日没)

1867年 12月13日 死去斬殺享年33歳

伊東甲子太郎 - ウィキペディアより引用

伊東 甲子太郎(いとう かしたろう、天保5年12月3日(1835年1月1日) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日))は、新選組参謀及び文学師範、のち御陵衛士(高台寺党)盟主。
諱は武明(たけあき)。
初名は大蔵(大藏)。
号は誠斎。
変名は宇田兵衛。
名前については「きねたろう」とも読めるが、同時代の史料に「樫太郎」と表記されたものがあることから、「かしたろう」が正しいとされる。
生涯 出自 常陸志筑藩士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。
忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放される。
伊東は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで勤王思想に傾倒する。
追放後の忠明は高浜村東大橋(現石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、帰郷した伊東も教授に当たった。
後に江戸深川中川町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門するが、道場主の伊東誠一郎に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称した。

新選組参謀。新選組隊士・三木三郎の実兄で、本名は鈴木大蔵。 常陸国志筑(茨城県かすみがうら市)出身。天保6年(1835年)〜慶応3年(1867年)11月18日。享年33歳。 旗本郷目付鈴木専右衛門の子として誕生するが、父は家老と対立して閉門蟄居・脱藩。 伊東甲子太郎は水戸で学問と剣を修行し、北辰一刀流の伊東誠一郎に入門するが、師が病死したため、遺言によってその一人娘うめの婿となり道場の跡目を継ぐ。 やがて藤堂平助の誘いで共に京に上り、元治元年(1864年)10月に新選組に入隊。その年の干支にちなんで、甲子太郎と名を改める。 水戸学・国学を修めており、尊王敬幕と攘夷の思想のため新選組に加盟したが、近藤勇・土方歳三の佐幕(幕権強化・回復)の考えと亀裂が入り新選組離脱。 のちに近藤勇の妾宅で歓待された伊東甲子太郎が、帰りに待ち伏せの新選組隊士数名に襲われ死去。遺骸は囮として放置され、引取りのため駆けつけた藤堂平助らが待ち伏せされ死去した。 (引用元 Hatena Keyword)