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渡辺千秋(わたなべちあき)

諏訪藩士政治家、伯爵[日本]

1921年 8月27日 死去享年79歳

渡辺千秋 - ウィキペディアより引用

渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体:渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。
位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。
人物= 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。
楓関と号する。
生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。
明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。
大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。
1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
元老などにも一言の交渉もなく、桂太郎が渡辺と結託して互いに陞爵を上奏したときの密約だと言われた。
1914年(大正3年)4月に辞任する。
その理由として、宮内省が武庫離宮造営のために西本願寺須磨別邸を買い上げた際に、賄賂の授受があったためとされる。
この背後には、渡辺が山縣閥であったことを、時の第1次山本内閣の法相奥田義人が嫌ったことがあるという説もある。
ちなみに、後任には山縣有朋との関係の薄い波多野敬直が任じられた。
なお、辞任直前の4月9日に昭憲皇太后が崩御したが、公式には4月11日崩御と発表された。
発表が丸2日ずらされたのは、内蔵頭当時の収賄で司 ……

渡辺千秋が亡くなってから、104年と58日が経過しました。(38044日)