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朝倉文夫 氏(あさくらふみお)

彫刻家[日本]

1964年 4月18日 死去急性骨髄性白血病享年81歳

朝倉文夫 - ウィキペディアより引用

朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日)は明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。
号は紅塐(こうそ)。
「東洋のロダン」と呼ばれた。
舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。
1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。
11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。
現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。
初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。

彫刻家(1883-1964)。 1907年、東京美術学校卒業。1908年、文展初入賞。1916年、文展審査員に就任、以後歴任。 卓抜した観察力と表現力をもち、写実派の巨匠として、日本の彫刻界に長く君臨した。ロダンの影響を受けた高村光太郎らのロマン派からは、アカデミズムとして敵視された。 (引用元 Hatena Keyword)