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曽我量深 氏(そがりょうじん)

侶・真宗大谷派、仏教思想家[日本]

(大谷大学学長)

1971年 6月20日 死去享年97歳

曽我量深 - ウィキペディアより引用

曽我 量深(そが りょうじん、1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。
真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。
旧姓、富岡。
法名、「無極院釋量深」。
伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。
出身地である旧味方村の名誉村民であった。
新潟市南区味方には、同じく名誉村民であった脳神経解剖学者の平澤興と、量深の2人を顕彰する「曽我・平澤記念館」が建てられている。
1875年9月5日、新潟県西蒲原郡味方村(現、新潟市南区味方)円徳寺に、富岡量導の三男として生まれる。
1897年、新潟県南蒲原郡新潟村大字指出(現、見附市)の浄恩寺に入寺、曽我恵南の養子となり曽我姓となる。
1899年、真宗大学(現、大谷大学)本科を卒業。
1901年、真宗大学が東京府北豊島郡巣鴨村宮仲(現、東京都豊島区上池袋一丁目・宮仲公園付近)へ移転・開校するにともない、東京に移住する。

そがりょうじん(1875―1971) 真宗大谷(おおたに)派の僧侶(そうりょ)。新潟県西蒲原(にしかんばら)郡の円徳寺に生まれる。真宗大学(大谷大学の前身)において真宗学と唯識法相(ゆいしきほっそう)を学び、1899年(明治32)卒業。のち新潟県見附(みつけ)市の浄恩(じょうおん)寺の養子となる。さらに同大学の研究科に学びつつ、清沢満之(きよざわまんし)の浩々洞(こうこうどう)に入る。1916年(大正5)より1924年まで東洋大学教授を務め、翌1925年大谷大学教授となる。1930年(昭和5)その著『如来(にょらい)表現の範疇(はんちゅう)としての三心観』に対し宗義違反の声がおこり、同年4月大谷大学教授を辞任、大谷派から僧籍を剥奪(はくだつ)された。1941年大谷大学教授に復帰し、1961年(昭和36)から1967年まで大谷大学の第17代学長を務めた。昭和46年6月20日没。著書は『救済と自証』ほか。[北西弘][参照項目]|清沢満之 (引用元 コトバンク)

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