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西太后

清の咸豊帝の妃[清]

(同治帝の母)

1908年 11月15日 死去享年72歳

西太后 - ウィキペディアより引用

西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。
清末期の権力者。
満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。
孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう、満洲語:ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠᡤᡞᠩᡤᡠᠵᡞᡞᠯᡝᡨᡠᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ、転写:hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo)、または慈禧太后(じきたいこう)。
老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる 。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。
英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。
幼名は蘭児。
紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・ニオフル氏。
慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。
慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。
徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。

せいたいこうXi-tai-hou;Hsi-t`ai-hou [生]道光15(1835).10.10.[没]光緒34(1908).10.22.北京中国,清朝,咸豊帝の側室で,同治帝の生母である慈禧(じき)皇太后のこと。エホナラ(葉赫納喇)氏の出身。咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王奕訢とはかり,クーデターで反対派を一掃,東太后とともに摂政となった。同治13年(1875)同治帝が死ぬと,自分の妹の子を立てて光緒帝とし,みずから摂政となった。光緒13(87)年から光緒帝の親政が始ったが,国政の実権は西太后が握り,同24年光緒帝が立憲君主制への転換をはかると,クーデターでこれを妨害し,帝を幽閉した(→戊戌の変法)。義和団の排外運動が高揚すると,自己保身のためこれを利用し,列強に宣戦を布告したが,8ヵ国連合軍の侵入を受け,敗れて西安へ逃げた。あらゆる進歩的改革に反対してきた西太后は,北京帰還後は立憲準備,実業,教育の振興などの新政を実施したが,対外的には排外政策から屈辱的外交に一転し,中国の半植民地化はますます深刻となった。革命運動,立憲運動の高揚のなかで光緒帝と相前後して死んだ。 西太后せいたいごう 「西太后」のページをご覧ください。 (引用元 コトバンク)