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小栗忠順(おぐりただまさ)

幕臣、勘定奉行、外国奉行[日本]

(慶応4年閏4月6日没)

1868年 5月27日 死去斬首享年42歳

小栗忠順 - ウィキペディアより引用

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
通称は又一。
安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。
文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。
三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。
その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。
同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。
逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

おぐりただまさ [生]文政10(1827).江戸[没]慶応4(1868).閏4.6.上野,権田江戸時代末期の幕臣。新潟奉行小栗忠高の子。豊後守,上野介と称する。万延1(1860)年,日米修好通商条約(→安政五ヵ国条約)批准のため,新見正興らの遣米使節に監察として随行。帰国後,外国奉行となる。文久1(1861)年,ロシア軍艦による対馬占領に際しては,交渉の任にあたって成功せず辞職したが,翌文久2(1862)年勘定奉行に登用され,以来,町奉行,軍艦奉行を経て慶応1(1865)年5月,難局に際し再度勘定奉行となる。倒幕諸藩と対決する最も強硬な幕府主戦派の一人として,幕閣で主流を占め,フランスとの間に借款契約を結び,フランス式軍制の導入を試み,横浜造船所を創設するなど,意欲的に幕府権力の確立に貢献した。また,封建制を廃止して郡県制の樹立を企画し,薩長両藩をフランスの援助のもとに征討しようとはかったが,幕府内の反対派に制止されて成功しなかった。大政奉還に反対して,慶応4(1868)年1月免官となり,以後,上野国権田村に帰郷して農兵の育成に努めた。東山道鎮撫総督に対しては帰順の意を表明したが,不穏のたくらみをするものとして討伐を受け,捕縛,斬首された。 (引用元 コトバンク)