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藤原俊成(ふじわらのとしなり)

公家歌人[日本]

(元久元年11月30日没)

(ユリウス暦) 1204年 12月22日 死去

藤原俊成 - ウィキペディアより引用

藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。
名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。
藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。
はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。
法名は釈阿。
最終官位は正三位・皇太后宮大夫。
『千載和歌集』の撰者として知られる。
生涯= 10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄 藤原顕頼の後見を得て国司を歴任したが、位階は18年間従五位下のまま停滞した。
天承・長承期(1131~35年)、岳父藤原為忠が主催する2度の「為忠家百首」へ出詠するなど詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。
保延6・7年(1140・41年)には自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げる。
「久安百首」の詠進や部類を命じられるなど、崇徳天皇の知遇を得る一方、美福門院の乳母子である美福門院加賀と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給により昇叙されるようになる。
保元元年(1156年)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊。
保元4年(1159年)二条天皇が内裏歌会を再開したが、二条天皇は当時の「歌の家」であった六条藤家の藤原清輔を重用した。
仁安元年(1167年)俊成は念願の公卿(非参議)となり、翌年御子左流に復す。
その後「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの社頭歌合の判者を務め ……