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川端龍子 氏(かわばたりゅうし)

日本画家俳人[日本]

1966年 4月10日 死去老衰享年82歳

川端龍子 - ウィキペディアより引用

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。
弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。
本名は昇太郎。
生涯 和歌山県和歌山市に生まれ。
幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。
自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。
1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。
城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
一中分校から東京府立第三中学校が設立されたことにで三中に移籍。
府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。
このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。

日本画の巨匠。明治18年(1885)〜昭和41年(1966)  龍子は生活のために新聞社で(読売新聞→国民新聞社)挿絵画家として生計を立てながらも、始め洋画を志したが、次第に日本画に傾倒。大正二年に渡米し、本格的に日本画に転身。院展入選三回目の32歳で御舟等と同人に推挙される。が、作風や性格等が日本美術院の会風と会わなかった為、*1、昭和3年には院展を脱退し、翌年に青龍社を創設。以後、ここを舞台に独自の画境を築く。青龍社は院展・日展と並ぶ有力団体として人気を得たが、龍子の存在が大き過ぎ、後に続く者が育たなかったためか、龍子没後は解散した。  龍子の作風は豪快でスケールが大きく、ダイナミックで独創的、色鮮やか。大作が多い。代表作に「愛染」など。 *1:大観に溺愛されたが故の周囲の妬みというのも理由であったらしい (引用元 Hatena Keyword)