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康熙帝

清朝第4代皇帝[清]

(康熙61年11月13日没)

1722年 12月20日 死去享年歳

康熙帝 - ウィキペディアより引用

康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。
諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。
君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。
在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。
また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。
生涯 即位 順治帝の第3子として生まれ、1661年に8歳で即位する。
順治帝の遺命により、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議制だった。
康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。
康煕8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、15歳の時に親政を始めた。

中国の清朝第四代皇帝。姓は愛新覚羅、名は玄?。諡は仁皇帝、廟号は聖祖。 1654年生、1722年没。在位は1661年から1722年。 順治帝の第三子。8歳で即位した。当初は重臣四人の輔政をうけたが、その中でもとくに権力を振るったオーバイを退けて康熙六(1667)年に15歳で親政をはじめる。 康熙二十(1681)年に雲南王呉三桂・広東王尚可喜・福建王耿精忠が康熙十二(1673)年から反乱していたもの(三藩の乱)を鎮圧。また二年後には鄭経*1病没後の台湾を攻略、領有した。 また北方においては、アルバジン城をロシアから康熙二十四(1685)年に奪還、索額図(ソエト)を派遣して康熙二十八(1689)年にロシアのピョートル1世とネルチンスク条約を締結。 全モンゴル統一をめざすジュンガル部の族長ガルダンにも大打撃を与え、外モンゴル・青海を領域に加えた。 内政面では、宦官政治を改めて長く放置されていた遭運を整備し、黄河の治水に努めた。また、康熙五十一(1712)年以後は増加した人丁を盛世滋丁人丁として永久に加賦しないこととして、地丁併徴への道を開く。 文字の獄、と呼ばれる清朝や皇帝を侮辱する文章を書いた文人への苛烈な弾圧の一方で、大編纂事業を進め、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『古今図書集成』などの編纂や、とくに朱子学には傾倒して『朱子全書』『性理大全』も編纂させた。 清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。 *1:鄭成功の長子。耿精忠の求めに応じ、三藩の乱が起こると清朝への攻撃を行った。 (引用元 Hatena Keyword)