石堂淑朗 氏(いしどうとしろう)
脚本家[日本]
2011年 11月1日 死去膵臓がん享年80歳
石堂 淑朗(いしどう としろう、1932年7月17日 - 2011年11月1日)は、日本の脚本家、映画評論家。
来歴=
広島県尾道市久保町出身。
実家は『東京物語』の撮影が行われた浄土寺の近くで、田坂啓の家も近所にあった。
父は種子島出身で、足が悪く、苦学して33歳で京都大学法学部を卒業した弁護士だった。
旧制尾道中学校(現・広島県立尾道北高等学校)在学中に学制改革を経験するが、男女共学化に反対して岡山県立岡山朝日高等学校に転校。
しかし翌年秋からここも共学化されるのを知り、同校を2年生の夏に中退。
大学入学資格検定を受けて同級生よりも1年早く広島大学に入学したがまた中退して、東京大学文学部独文学科に入学した。
東大在学中から、同期の種村季弘、吉田喜重らと「同人誌」を刊行。
東京大学卒業後、1955年、吉田と松竹大船撮影所に入社。
渋谷実のもとで助監督修行。
1960年に『太陽の墓場』で脚本家デビュー。
大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らとともに、“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われた1960年代初頭の映画革新運動の中心的役割を果たした。
同年、大島と共同脚本を執筆した『日本の夜と霧』が浅沼稲次郎刺殺事件を理由に上映禁止になると、翌1961年、松竹を退社した大島と行動をともにし、大島主宰の「創造社」の同人となった。
大島渚作品の『太陽の墓場』、 吉田喜重作品の『水で書かれた物語』、実相寺昭雄作品の『無常』、浦山桐郎作品の ……
大島渚監督の「日本の夜と霧」などで松竹ヌーベルバーグの一翼を担い、評論家としても活躍した脚本家の石堂淑朗(いしどう・としろう)氏が11月1日、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。79歳だった。広島県出身。葬儀は近親者のみで行った。 1955年松竹大船撮影所入り。60年に大島渚監督と共同執筆した「太陽の墓場」で脚本家デビューした。61年にフリーとなり、映画「非行少女」「水で書かれた物語」「無常」「南極物語」、テレビドラマ「マグマ大使」「帰ってきたウルトラマン」「必殺仕掛人」などを手掛けた。89年の「黒い雨」(今村昌平監督)で日本アカデミー賞最優秀脚本賞。週刊誌のコラムなども執筆し、保守派の論客としても知られた。社団法人シナリオ作家協会会長、日本映画学校校長も務めた。 (2011/12/01-13:14)
石堂淑朗さんが亡くなってから、13年と22日が経ちました。(4770日)