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周恩来 氏Zhou Enlai

政治家首相[中国]

1976年 1月8日 死去膀胱がん享年79歳

周恩来 - ウィキペディアより引用

周 恩来(しゅう おんらい、ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。
字は翔宇。
中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。
毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。
1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
生涯 生い立ち 周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。
周恩来が13歳となった1911年、辛亥革命が起きる。
翌1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。
1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。
日本留学 南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。
日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。

しゅうおんらいZhouEn-lai [生]光緒24(1898).江蘇,淮安[没]1976.1.8.北京中国の政治家。字は少山,伍豪。天津の南開中学を経て1917年日本に留学。帰国後,南開大学に入り,五・四運動に参加し,逮捕投獄された。出獄後,進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなり,20年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,22年入党。24年帰国し,党の広東省委員会書記となり,黄埔軍官学校政治部主任代理を兼任。26年中山艦事件で逮捕。北伐が開始されると上海に潜入し,27年北伐軍に呼応する労働者の蜂起を指導したが,蒋介石の上海クーデターで逮捕され,武漢に脱出。国共分裂後,南昌暴動に参加。28年モスクワで開かれた六全大会に出席,31年江西ソビエト区に入り政治局主席団の一人に選ばれ,軍事部長を兼任。32年第1方面軍総政治委員,34年から革命軍事委員会副主席(主席は朱徳)を兼ね,同年長征に参加。36年12月西安事件が起ると,党代表として蒋介石に内戦停止,国共合作を約束させる一方,蒋の生還に努力し,抗日民族統一戦線の結成を可能にした。日中戦争勃発後は国民政府の軍事委員会政治部副部長(部長は陳誠)などの要職について,国共間の折衝の任にあたり,国民参政会の党代表団の一員でもあった。一方,党内では政治局副主席,革命軍事委員会副主席の要職にあった。46年国共の武力衝突を避けるため,G.マーシャル,張群と三人委員会をつくり,同年の政治協商会議には党代表団長として政権の民主化に尽力。49年の中華人民共和国成立後は政務院(のち国務院)総理兼外交部長となり,総理は76年の病死まで,外交部長は …… (引用元 コトバンク)