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平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)

政治家、内閣総理大臣、男爵[日本]

1952年 8月22日 死去享年86歳

平沼騏一郎 - ウィキペディアより引用

平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、検察官、政治家。
位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。
学位は法学博士。
号は機外。
大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。
概要= フロックコートを着用した平沼 美作国津山藩士平沼家に生まれる。
東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。
明治40年にはイギリス、ドイツ、フランスへ派遣され、法学博士号を受けた。
この間に日糖事件や大逆事件などを取り扱い名を上げた。
1911年(明治44年)には刑事局長、1912年(大正元年)には検事総長に補され、以後約10年にわたってその職責にあり、シーメンス事件や大浦事件などで腕を振るい、1917年(大正6年)の官営八幡製鉄所事件では自ら指揮にあたり、同年には法学博士として『刑事訴訟法改正案の要旨』も著した。
1921年(大正10年)、1月1日に皇室中心主義の修養団体国本社を結成し、会誌『国本』の発行を開始した。

平沼騏一郎が亡くなってから、72年と93日が経過しました。(26391日)

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