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清浦奎吾(きようらけいご)

政治家、内閣総理大臣、伯爵[日本]

1942年 11月5日 死去享年93歳

清浦奎吾 - ウィキペディアより引用

清浦 奎吾(きようら けいご、1850年3月27日(嘉永3年2月14日) - 1942年(昭和17年)11月5日)は、日本の司法官僚、政治家。
位階は正二位。
勲等は大勲位。
爵位は伯爵。
幼名は普寂(ふじゃく)。
旧姓は大久保(おおくぼ)。
貴族院議員、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任した。
肥後(熊本県)出身。
司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。
1924年(大正13年)に組閣したが、ほぼ全閣僚を貴族院議員から選んだため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。
わずか5か月で総辞職した。
清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。
生涯 生い立ち 清浦奎吾は嘉永3年(1850年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。

きようらけいご [生]嘉永3(1850).2.14.肥後[没]1942.11.5.静岡,熱海政治家。父は僧侶の大久保了思。清浦家の養子となる。明治5(1872)年,上京して埼玉県吏となり,1876年に司法省に入った。84年内務省警保局長を経て,山県有朋閥に属する内務官僚として頭角を現し,92年司法次官。96年第2次山県有朋内閣の司法相,次いで1901年第1次桂太郎内閣の司法,農商務相となった。06年枢密顧問官を歴任。憲政擁護運動,シーメンス事件のなか14年山本権兵衛内閣が倒れたあと,山県の意向を受け,組閣を試みたが,海軍,政友,憲政両党の反対で失敗。22年枢密院議長,伯爵。24年1月組閣,首相となったが,5月の総選挙で護憲三派が圧勝し,6月に総辞職した。 (引用元 コトバンク)