西園寺公望(さいおんじきんもち)
公家、政治家、内閣総理大臣、公爵[日本]
1940年 11月24日 死去腎孟炎享年92歳
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日〈1849年12月7日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。
位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。
雅号は陶庵、不読、竹軒。
概説=
戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。
第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。
第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
明治36年(1903年)には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。
この時代は西園寺と桂太郎が3度にわたって交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。
その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。
大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
また、教育にも尽力し、自らが創設した私塾立命館は現在の立命館大学の礎となった。
来歴=
生い立ち=
1849年12月7日(嘉永2年10月23日)、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として、山城国京都 ……
西園寺公望が亡くなってから、83年と364日が経過しました。(30680日)