水野忠邦(みずのただくに)
遠州浜松藩主、老中[日本]
(天保の改革を行う、嘉永4年2月10日没)
1851年 3月12日 死去享年58歳
水野 忠邦(みずの ただくに)は、日本の江戸時代後期の大名、江戸幕府老中。
肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。
天保の改革の指導者。
生涯=
出生・唐津・浜松藩主時代=
寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。
母・恂は風月堂初代喜右衛門の養女で、忠邦を生んだあと風月堂へ戻り二代喜右衛門の妻となったため、忠邦と三代風月堂は異父兄弟となる。
長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。
そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。
この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。
また唐津藩から一部幕府領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、 ……
水野忠邦が亡くなってから、173年と256日が経過しました。(63444日)