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桜町天皇(さくらまちてんのう)

第115代天皇[日本]

(寛延3年4月23日崩御)

1750年 5月28日 死去脚気衝心享年31歳

桜町天皇 - ウィキペディアより引用

桜町天皇(さくらまちてんのう、1720年2月8日〈享保5年1月1日〉 - 1750年5月28日〈寛延3年4月23日〉)は、日本の第115代天皇(在位: 1735年4月13日〈享保20年3月21日〉- 1747年6月9日〈延享4年5月2日〉)。
諱は昭仁(てるひと)。
幼名は若宮。
中御門天皇の第一皇子。
母は関白太政大臣近衛家熙の女で中御門女御の近衛尚子(新中和門院、徳川家宣の猶子)。
略歴= 桜町天皇懐紙 幼名は若宮。
享保5年(1720年)の元日に誕生したが、母の近衛尚子は若宮誕生から20日目に急逝した。
しかし、同年10月には儲君に定められ、11月には親王宣下が行われている。
生母が不在であったために曾祖母の六条局(中御門天皇の外祖父の櫛笥隆賀の妻の西洞院時子)や外祖父の近衛家熙が養育の中心となった。
享保13年(1728年)6月に立太子、享保18年(1733年)2月に元服、享保20年(1735年)に父帝の譲位により践祚。
即位直後は朝遅く起きて、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問よりも蹴鞠を好むと、右大臣の一条兼香を嘆かせている(『兼香公記』享保20年4月22日条)。
だが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めていたことが窺える。
また、東山・中御門両天皇や自身の養育に外戚である松木家や櫛笥家が深く関与して政治的発 ……

桜町天皇が亡くなってから、274年と177日が経過しました。(100256日)

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