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雄略天皇

第21代天皇[日本]

(ユリウス暦) 0479年 9月8日 死去病気享年歳

雄略天皇 - ウィキペディアより引用

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。
大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。
その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

ゆうりゃくてんのう 第21代に数えられる天皇。5世紀後半に在位したとされる。允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツヒメノミコト。名はオオハツセノワカタケノミコト。記紀によれば,同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し,さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して即位した。平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に,大伴連室屋と物部連目を大連とし,秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重く用いて政権の強化に努め,強大な権力をもった専制的君主であったとみられる。『宋書』倭国伝などに記された倭王武は,雄略天皇であると考えられ,古代天皇の専制的,英雄的性格の頂点に立っている(→倭の五王)。しかし朝鮮では,雄略天皇の前後から高句麗,新羅が百済および任那を圧迫したので,天皇はしばしば兵を送ったが,朝鮮の支配はしだいに困難となった。またこの代に呉の国から漢織,呉織(くれはとり)など機織りの技術者を迎え入れたと伝えられる。大和の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に都し,草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。橘姫)を立てて皇后とした。皇后には子がなく,天皇の死後は葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の娘,葛城韓媛(かつらぎのからひめ)の産んだ白髪皇子(清寧天皇)と,吉備氏の娘稚媛の産んだ星川皇子とが皇位を争った。陵墓は大阪府羽曳野市島泉の丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。 (引用元 コトバンク)