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平清盛(たいらのきよもり)

平家の武将、太政大臣[日本]

(治承5年閏2月4日没)

(ユリウス暦) 1181年 3月20日 死去熱病享年64歳

平清盛 - ウィキペディアより引用

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。
日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。
(平氏政権)。
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
生涯 伊勢平氏の嫡男 元永元年(1118年)、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。
出身地は京都府京都市という説が有力である。
(実父は白河法皇という説もある。
詳細後述)。
生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると保安元年(1120年)没)である可能性が高い。

たいらのきよもり [生]元永1(1118)[没]治承5(1181).閏2.5.京都平安時代末期の武将。忠盛の長子。母は祇園女御の妹という。仁平3(1153)年父が没し,平氏の棟梁となった。保元1(56)年の乱で源義朝とともに後白河天皇側について勝利を得,続く平治1(59)年の乱では源義朝らを追討し,源氏一族を政界から追った(→保元・平治の乱)。仁安2(67)年従一位太政大臣,承安1(71)年娘徳子を上皇の猶子(ゆうし)として入内させ,徳子は言仁親王(のちの安徳天皇)をもうけた。日宋貿易や三十余国の知行国をもつことによって富を得,栄華をきわめたが,貴族化したため,武士の支持を失い,宮廷内でも多くの反感を買った。治承4(80)年源頼政が以仁王を奉じて挙兵したのに始り,源頼朝,義仲らが挙兵。この間福原への遷都を強行した。源氏軍との戦いが続き,平氏軍不振のうちに病没。没日については4日説がある。仁安2年平氏の繁栄を祈願し厳島神社に納めたいわゆる『平家納経』(33巻,国宝)は装飾経としてもすぐれていて名高い。 (引用元 コトバンク)