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徳川家治(とくがわいえはる)

第10代江戸幕府将軍[日本]

(天明6年8月25日没)

1786年 9月17日 死去享年50歳

徳川家治 - ウィキペディアより引用

徳川 家治(とくがわ いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍(在任:1760年 - 1786年)である。
第9代将軍徳川家重の長男。
生涯= 元文2年5月22日、第9代将軍・徳川家重の長男として江戸城西ノ丸にて生まれる。
母は梅渓通条の娘・梅渓幸子(至心院)。
幼名は竹千代。
幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。
吉宗は死亡するまで、家治に直接の教育・指導を行った。
それは、言語不明瞭だった家重に伝授できなかった帝王学の類を教えるためでもあった。
家治は文武に明るかったが、これも吉宗の影響が非常に大きい。
寛保元年 (1741年)8月、元服して権大納言に叙任する。
宝暦4年(1754年)12月に直仁親王の娘・五十宮と結婚した。
宝暦10年(1760年)5月3日、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。
父の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。
しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。
安永8年 (1779年) 、世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を養子とし ……

徳川家治が亡くなってから、238年と68日が経過しました。(86998日)

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