堀田正睦(ほったまさよし)
下総佐倉藩主、老中首座[日本]
(元治元年3月21日没)
1864年 4月26日 死去享年55歳
堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代後期の大名・老中首座。
下総国佐倉藩5代藩主。
官位は従四位下・侍従、贈従三位。
正俊系堀田家9代。
生涯=
出生・少年期=
文化7年(1810年)8月1日、佐倉藩3代藩主・堀田正時の次男(末子)として江戸藩邸にて誕生した。
文化8年(1811年)4月、正時が死去したが、藩主は嫡系の正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。
初名は正篤(まさひろ)。
少年期の正篤は丈夫な身体をもち、すくすく育った。
小鳥が大好きで、子供の頃から餌をやることが好きだった。
近習と仲間を1人ずつ連れて外に出て自然の中で遊んだり、渋谷広尾にあった下屋敷で母や姉と共にのびのびと暮らした。
家督相続・藩政=
正愛には実子が文政2年(1819年)10月に生まれるも、翌年に早世した。
また正愛も病弱で、文政5年(1822年)春頃から肝臓を患い、2年後には危険な状態になったため、文政7年(1824年)、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正愛の後見を務めていた堀田一族長老の若年寄・堀田正敦(近江国堅田藩主)の子を藩主に擁立しようとした。
だが、藩内では物頭の渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対して対立。
さらに正敦が養子を出すことを拒否したため、正篤が藩主に就任した。
当時の佐倉藩では金井右膳が専制を振るっていたが、これは、度重なる外国船の接近に対して佐倉藩は幕府の命令により文政6年(1823年)以来病気がちの ……
堀田正睦が亡くなってから、160年と212日が経過しました。(58652日)