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有村次左衛門(ありむらじざえもん)

薩摩藩士[日本]

(桜田門外の変で井伊直弼の襲撃に加わる、安政7年3月3日没)

1860年 3月24日 死去享年22歳

有村次左衛門 - ウィキペディアより引用

有村 次左衛門(ありむら じざえもん)は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、尊王攘夷派志士。
諱は兼清。
桜田門外の変(1860年)において井伊直弼の襲撃に参加して重傷を負い、現場近くで切腹した。
生涯= 天保9年(1839年)、薩摩藩士有村兼善の四男として生まれる。
母は連寿尼(森元高見の娘)。
兄に有村俊斎(後の海江田信義)、有村雄助がいる。
剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を学び、後に江戸で北辰一刀流を修めた。
安政5年(1858年)兄の雄助とともに江戸で尊攘活動を行い、のちに脱藩し、水戸藩士らの志士と交流を深める。
安政6年(1859年)に安政の大獄が起きるとそれに憤慨し、その実行者である大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画。
翌安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝、桃の節句祝いに登城する井伊を狙って江戸城桜田門外で行列を襲撃した(桜田門外の変)。
自身は行列中央の井伊の駕籠を襲い、路上に引きずり出して殺害し、首級をあげた。
井伊の首級を持ち去ろうとしたが、供回りだった彦根藩士小河原秀之丞に後頭部を斬り付けられて重傷を負い、同行していた広岡子之次郎が小河原を斬り伏せるも若年寄遠藤胤統の辻番所付近で力尽きて自害を図る。
有村はまず割腹しようと、着用していた皮の稽古胴を外そうとしたが紐を外せず、携帯していた短刀を雪上に立てて伸し掛かろうするも見当をつけられず、周囲の人々に井伊の首級を運ぶよう要請したが、応じる ……

有村次左衛門が亡くなってから、164年と245日が経過しました。(60146日)