南雲忠一(なぐもちゅういち)
海軍大将[日本]
1944年 7月8日 死去自決享年58歳
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。
海兵36期。
太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。
死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。
正三位勲一等功一級。
生涯=
1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。
6人兄弟姉の末子であった。
父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。
米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
海軍兵学校では三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された。
1908年(明治41年)、海兵36期を191人中8番の成績で卒業。
海軍少尉候補生となり、巡洋艦「宗谷」乗組。
海軍中尉時代の青年期の南雲
1918年(大正7年)12月1日、海軍大学校の甲種学生18期生となる。
1920年(大正9年)海大甲種第18期を次席で卒業。
1920年(大正9年)12月1日 海軍少佐に昇進。
艦隊派=
シアトル訪問時の南雲(左)
1930年(昭和5年)頃、南雲は艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、山本五十六や井上成美と対立し、その政治的な活動(艦長の連判をとって、艦長の総意として連合艦隊司令長官に上申した)は外部にも知られていた。
1930年に開催されたロンドン軍縮会議の後、 ……
南雲忠一が亡くなってから、80年と168日が経過しました。(29388日)