中野忠晴(なかのただはる)
作曲家[日本]
1970年 2月19日 死去肺がん享年92歳
中野 忠晴(なかの ただはる、1909年(明治42年)5月27日 - 1970年(昭和45年)2月19日) は、愛媛県大洲市出身の歌手・作曲家。
服部良一、ディック・ミネとともにアメリカのポピュラーソングを戦前期の日本に広め、和製ポップスの基礎を築く。
人物=
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実父がキリスト教会の牧師(オルガン演奏家)だった影響もあり、地元キリスト教会の賛美歌合唱隊に所属していた。
武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)在学中にニッポンレコードでレコードの吹き込みのアルバイトをしていたことと、1932年春の音楽学校声楽科の新卒業生を集めて行われた新人音楽会で、クルト・ワイルの三文オペラ中の歌、「マック・ザ・ナイフ」を歌って脚光を浴びたことがきっかけで、作曲家・山田耕筰にスカウトされ、日本コロムビアに入社する。
コロムビアに入社した当初は、日本ビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)所属の徳山璉のライバルとしてデビュー。
当初は歌謡曲路線を中心に活動していたが、アメリカのジャズコーラスユニット「ミルスブラザーズ」の影響を受 ……
中野忠晴が亡くなってから、54年と310日が経過しました。(20034日)