井上毅(いのうえこわし)
熊本藩士、官僚、政治家、子爵[日本]
1895年 3月15日 死去享年52歳
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉 - 明治28年〈1895年〉3月17日)は、幕末・明治期の日本の武士(熊本藩士)、官僚、政治家。
大日本帝国憲法起草者の一人。
栄典は正三位勲一等子爵。
概説=
肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
必由堂、藩校時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。
明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。
帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。
明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。
安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
法制局長官、枢密顧問官、第2次伊藤内閣の文部大臣を歴任。
同時代の政治家・井上馨とは血縁関係は無い。
生涯=
熊本藩士=
天保14年12月18日(1844年2月6日)、肥後熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田権五兵衛の3男として、熊本城下の長岡家下屋敷の長屋に生まれる。
父は年米25俵の下級武士で、母美恵は同じ長岡家家臣神山家の出身。
幼名は多久馬。
号は独々斎、または梧陰。
幼少時から神童ともてはやされ、家事をしながら読書を欠かさずこなし、勉強熱心な姿勢が主君・長岡 ……
井上毅が亡くなってから、129年と254日が経過しました。(47371日)