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松平容保(まつだいらかたもり)

会津藩主、日光東照宮宮司[日本]

1893年 12月5日 死去肺炎享年59歳

松平容保 - ウィキペディアより引用

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。
陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主)。
京都守護職。
高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。
現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。
生涯 生誕 天保6年(1835年)1歳 12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。
母は側室の古森氏。
幼名を銈之允と称す。
弘化3年(1846年)12歳 4月27日、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。
「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。
ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。
それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。

幕末の大名。 1836年(天保6年)、美濃国で松平義建の子として生まれる。 12歳の時に伯父にあたる会津藩主松平容敬の養子となる。 18歳で第9代会津藩主に就任。 1862年(文久2年)、体調不良等を理由に難色を示すも、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、松平春獄らに説得され、幕府より「京都守護職」を拝命する。治安回復のため新撰組を使うなどして治安回復に努める。 そして孝明天皇の高い信頼を得、公武合体に尽力し、薩摩藩とむすび、尊攘急進派の長州藩・土佐藩を一掃する。 しかし、孝明天皇崩御、14代将軍徳川家茂の死去、そして薩長同盟の結成、さらに15代将軍徳川慶喜の戦意喪失などにより、朝廷より逆賊の扱いを受け鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸へ逃れる。 しかし、忠誠を貫いてきた将軍徳川慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、さらに朝廷からも逆賊の汚名を着せられる。 そして会津での孤立無援の篭城戦の末、官軍に降伏、謹慎の身となる。 1880年(明治13年)、許されて日光東照宮宮司となる。 1893年(明治26年)12月5日、死去。会津松平家のしきたり通り、神道にのっとり忠誠霊神と号される。 (引用元 Hatena Keyword)