片桐且元(かたぎりかつもと)
戦国武将[日本]
(元和元年5月28日没)
1615年 6月24日 死去享年60歳
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
賤ヶ岳の七本槍の一人。
豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。
関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕え、秀頼の命で、滅失していた方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿の再建にあたった。
しかし同寺院に納める梵鐘の鐘銘をめぐり方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)が生じ、大坂城を退出して徳川方に転じた。
且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。
弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。
諱
天正12年(1584年)における小牧・長久手の戦いの6月5日付けの陣立書まで確認できるように、豊臣秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。
翌天正13年(1585年)7月1日、従五位下・東市正に任じられた際より、直盛の使用が確認される。
且元の使用は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前のころと考えられている。
この記事においては便宜上、名を且元に統一する。
生涯
出生
弘治2年(1556年)、近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれた。
母は不詳。
信濃源氏の名族である片切氏は、伊那在郷の鎌倉御家人だったが、本流が片切郷に残る一方で、支流は承久年間以降に美濃国・近江に進出し、片桐に改姓した。
戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは直貞の代からという。
須賀谷は ……
片桐且元が亡くなってから、409年と150日が経過しました。(149537日)