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飯田蛇笏(いいだだこつ)

俳人[日本]

1962年 10月3日 死去享年78歳

飯田蛇笏 - ウィキペディアより引用

飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。
本名、飯田武治(いいだ たけはる)。
別号に山廬(さんろ)。
高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。
俳誌「雲母」を主宰。
四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。
句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。
経歴 = 出生から中学時代= 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。
飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
父は宇作、母はまきじ。
蛇笏は8人兄弟(四男四女)の長男。
元富国生命社長の森武臣(孫の牧子は衆議院議員山口壮の妻)は実弟にあたる。
飯田家は母屋の背後に狐川が流れ、さらにその背後には「後山」と呼ばれる山腹が続く。
蛇笏は飯田家を「山盧(さんろ)」と称した。
1890年(明治23年)には清澄尋常小学校(後の境川小学校)へ入学する。
山梨県では当時、江戸期以来の宗匠が俳壇を形成し影響力を残しており、現在の笛吹市境川町一帯でも俳諧が盛んであった。
蛇笏も幼少期から旧来の月並俳句に親み、この時期の句に「もつ花に落つる涙や墓まゐり」がある。
1900年(明治30年)には東京において正岡 ……

飯田蛇笏が亡くなってから、62年と56日が経過しました。(22702日)