今関一馬 氏(いまぜきかずま)
洋画家[日本]
2009年 6月10日 死去肺炎享年82歳
1926(大正15)年7月17日、洋画家今関啓司の長男として東京に生まれる。1945(昭和20)年旧制第一高等学校に入学するが、46年に死去した父の遺品の中に竹製の筆巻きに包まれた数十本の油彩画の筆を見出したことが契機となって画家を志し、51年に東京帝国大学を中退。55年、第一回J.A.Nふらんす・クリチック賞絵画展に出品し、同会会員となる。同年、東京の資生堂ギャラリーで第一回個展を開催。56年、57年に東京銀座の村松画廊で個展を開催する。59年第33回国画会展に「たわむれ」「別離」で初入選。同年同会会友に推挙されるとともに、第3回安井賞候補新人展にこれら2点を招待出品する。60年、第3回J.A.Nふらんす・クリチック賞展に「不死鳥」を出品して受賞、同年第34回国画会展に「群馬」「不死鳥」を出品し、会友優作賞を受賞して会員に推挙される。また同年第3回国際具象派展に「群馬」を招待出品。62年には第4回国際具象派展に「鳥のいる風景」「不死鳥」を招待出品する。63年第7回日本国際美術展に「赤い鳥に抱かれた女」を招待出品。66年に初めて渡欧し、フランス、スペイン、イタリアを巡遊して翌年帰国。パリでギュスターブ・クールベの「画家のアトリエ」を見、画面にあらわれた「愚鈍なまでの誠実さ」「孤独で悲しい闘争心」に感銘を受ける。また、南欧の風景に魅了され、以後、しばしば渡欧する。渡欧以前は動物などをモティーフに、具象画ながら対象を抽象化した作品を多く描いたが、渡欧後は風景画を主に制作するようになる。67年第6回国際形象展に滞欧作「トレド」「夜のカテドラル」を招待出品。82年、中国文化部の招待により中国を旅行し、北京、上海、蘇州等を訪れる。同年、再度、中国を訪れ、翌年にも紹興、桂林、広州などを訪れる。87年、横浜市民ギャラリーで初期からの画業を跡づける「今関一馬自選展」を開催。1993(平成5)年、北海道、東北を写生旅行し、北海道美瑛の風景に魅せられてここにアトリエを構える。99年、第14回小山敬三美術賞を受賞し、同年これを記念して「今関一馬展」が日本橋高島屋で開催される。2004年には茂原市立美術館・郷土館で「今関一馬展」が開催され、60年代から2000年代までに描かれた作品76点が展示された。69年に母校である東京大学の教養学部図書館壁画「青春」を描いて以降、73年に大秦野カントリークラブ壁画「天と地と歓び」、77年に伊勢原カントリークラブ壁画「春のうた」「秋に踊る」、78年に住友生命本社壁画「浜辺の歓び」「緑陰の憩い」、91年にトヨタ自動車株式会社トヨタ館壁画「人・自然・車づくり」などを描いている。これらの公的な場への壁画は、風景の中に裸体人物群像が配され、19世紀のアカデミックなヨーロッパ絵画の伝統が踏まえられ、知的な構成がなされているが、風景画は明るい色調で対象への感興を率直に表す作風を示した。(引用元・日本美術年鑑 平成22年版)
今関一馬さんが亡くなってから、15年と164日が経ちました。(5643日)