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徳川光圀

水戸藩主[日本]

(元禄13年12月6日没)

1701年 1月14日 死去享年74歳

徳川光圀 - ウィキペディアより引用

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。
「水戸黄門」としても知られる。
諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。
また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。
徳川家康の孫に当たる。
儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。
また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。
水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。

水戸藩第2代藩主。水戸光圀、源光圀とも。(1628年-1700年) 初代水戸藩主、頼房の三男。1661年、34歳で藩主となる。 明から亡命してきた儒学者の朱舜水を招き教えを享受、江戸藩邸の彰考館で「大日本史」の編纂に着手し、いわゆる水戸学の礎を築く。 講談(及びテレビドラマ)では「黄門さま」と親しまれている。実際には全国漫遊したわけではない(リンク先参照)が、助さんと格さんは実在している*1。 常陸太田市の水道は、江戸時代、水戸黄門が建設した山寺水道が始まりです。延宝5年(1677年)稲木町に母の菩提を弔う久昌寺(明治時代に新宿町に移転)と、檀林(仏教の学問所)を建てました。この一体は地盤が岩盤で井戸をほっても水がでませんでした。また、寺域に隣接する集落でも水に不自由していました。光圀公は住民の困窮を救おうと山寺水道の建設に着手しました。 光圀公といえば、「水戸黄門漫遊記」とか「大日本史」とか、精神面でのリーダーとして受けとめられがちですが、こうした「地域基礎整備」にも力を注だ事実を忘れてはなりません。 *1:「大日本史」編纂の過程で招かれた学者の浅賀格兵衛と佐々介三郎がモデル (引用元 Hatena Keyword)