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加藤嘉明(かとうよしあきら)

戦国大名[日本]

(寛永8年9月12日没)

1631年 10月7日 死去享年69歳

加藤嘉明 - ウィキペディアより引用

加藤 嘉明(かとう よしあきら/よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。
豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。
伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。
通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改める。
諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていた。
生涯 秀吉時代 永禄6年(1563年)、三河国幡豆郡永良郷で、松平家康の家臣であった加藤教明(岸三之丞教明)の長男として生まれた。
生まれた年の三河一向一揆で、父が一向一揆勢に組して家康に背き、敗れて流浪の身となったため、嘉明も放浪した。
流転の後に近江国に至り、父は長浜城主・羽柴秀吉に仕えて300石を食み、矢嶋郷に住んだ。
嘉明は馬の行商を手伝っていたが、幼少ながら優れた資質があるということで加藤景泰(加藤光泰の父)に見出され、秀吉に推挙された。
秀吉はこれを景泰の猶子として、これを機に加藤姓を名乗るようになったとも言う。
秀吉は養子羽柴秀勝の小姓として嘉明を仕えさせた。
ところが、天正4年(1576年)、秀吉の播磨攻めに嘉明が秀勝には内緒で従軍し、初陣前の主君を差し置いて小姓が初陣を遂げようとするとは何事かと秀吉夫人・おねの方に厳しく叱責され、嘉明は「無頼の者」でありすぐに家に帰せと言ってきたが、その意欲を評価した秀吉によって陣中に留め置かれ、結局、300石の扶持で秀吉の直臣とされた。

豊臣秀吉子飼いの武将。賤ヶ岳の七本槍のひとり。 豊臣水軍の指揮官として活躍。着実に加増を重ね、慶長三年(1598年)には伊予松前城主として10万石を知行。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して石田三成隊を攻撃。戦後の論功行賞によって20万石へと加増を受けている。 慶長八年(1603)、新たに築いた伊予松山城に移り住み、その後も工事は続けられましたが、いちおうの完成をみた寛永四年(1627)に会津若松40万石へと転封となりました。 (引用元 Hatena Keyword)