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岡本太郎 氏(おかもとたろう)

芸術家[日本]

1996年 1月7日 死去急性呼吸不全享年86歳

岡本太郎 - ウィキペディアより引用

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。
血液型はO型。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。
抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流(ただし合流はしていない)した。
第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した。
少年時代 太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。
父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。
父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

おかもとたろう [生]1911.2.26.東京[没]1996.1.7.東京洋画家。岡本一平,岡本かの子の一子。1929年東京美術学校に入学,同年末両親とともに渡欧,11年間パリに滞在。31年ピカソの作品に感化されてサロン・デ・シュルアンデパンダンに『傷ましき腕』(1936)を出品,37年まで抽象美術のグループ「アブストラクシオン・クレアシオン」に参加。36年神秘主義と政治革命を目指す「社会学研究所」に加わる。この間パリ大学で哲学,社会学,民族学を修め39年卒業。40年に第2次世界大戦の戦局悪化のためパリを逃れて帰国。41年二科会に入り(61年脱退),42年応召,中国で転戦。戦後は前衛派の主流として花田清輝,野間宏らと前衛芸術を推進し,原色図形などによる作品を発表。60年代以後,各国の国際展に出品して海外でも評価を得る。また,評論家としても活躍するほか,舞台装置,モニュメントの制作,メダル,織物,家具のデザインを手がけ,70年の日本万国博覧会ではテーマ展示プロデューサーをつとめ,『太陽の塔』を設計し話題となった。その他の主要作品はパリ国際センター会議場の大壁画(75)。主著『日本再発見』(58),『忘れられた日本』(61),『美の呪力』(71)など。 (引用元 コトバンク)