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足利義視

足利将軍家一門[日本]

(延徳3年1月7日没)

(ユリウス暦) 1491年 2月15日 死去享年53歳

足利義視 - ウィキペディアより引用

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。
室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方足利政知(実際では次兄にあたる)がいる。
子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。
はじめ出家して義尋(ぎじん)と名乗り、天台宗浄土寺門跡となった。
後に嗣子に恵まれない兄・義政の後継となったが、義政と御台所日野富子の間に実子・義尚が生まれると将軍職をめぐって対立、応仁の乱を引き起した。
乱後は美濃に亡命し、甥の義尚と兄の義政の死後、子の義材を10代将軍に擁立して自らは大御所として後見し幕政を牛耳ったが、兄の死から1年後の1月7日に死去した。
生涯 還俗 永享11年(1439年)1月18日、6代将軍足利義教の10男として生まれる。
母は小宰相局と呼ばれる家女房。
初め正親町三条実雅の養子にされ、嘉吉3年(1443年)に出家して浄土寺の門跡となったが、寛正5年(1464年)11月25日に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗し、翌日の26日に今出川屋敷に移り住み、12月2日に正式に還俗し義視を名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。

室町後期の武将。六代将軍義教の子。浄土寺に入り義尋と称したが、兄義政の後嗣となり還俗して義視と改名、今出川殿と呼ばれた。しかし義政に実子義尚が誕生したため、継嗣争いから応仁の乱を誘発し、義視は伊勢に逃れ、次いで西軍に投じた。のち土岐氏を頼って美濃へ下ったが、義尚の死で子義材が将軍となると、上洛して幕政を後見した。延徳3年(1491)歿、53才。 (引用元 コトバンク)