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李舜臣Yi Sun-sin

李氏朝鮮の将軍[朝鮮]

(文禄・慶長の役時の朝鮮水軍の将軍)

1598年 11月19日 死去戦死享年54歳

李舜臣 - ウィキペディアより引用

李 舜臣(り しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年4月18日(明暦:嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦:万暦26年11月19日)は、李氏朝鮮の将軍。
字は汝諧(ヨヘ、여해)。
文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされるが、党争の影響でしばしば讒言を受け、また、抗命したことで兵卒に落とされるなど浮き沈みが激しく、元均の戦死で復権したが、露梁海戦で戦死した。
死後に贈られた謚は忠武公(충무공)。
前半生 本貫は徳水李氏。
京畿道開豊郡の出身で、漢陽(別名:漢城、現:ソウル特別市)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれた。
父は李貞。
4人兄弟の三男で、兄弟の名前は上から順に羲臣、尭臣、舜臣、禹臣。
彼ら兄弟の名前は中国の伝説上の帝王である堯、舜、禹などの一字を取って名付けられた。
子は李薈、李䓲、李葂、李薰、李藎ら。
同時に、朝鮮の領議政(現在の首相に相当)となる3歳年上の柳成龍も同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染の仲にあった。

りしゅんしんYiSunsin [生]明宗1(1545).漢陽[没]宣祖31(1598).露梁朝鮮,朝鮮王朝(李朝)の武将。京畿道開豊郡中面徳川里(旧徳水県)出身。字は汝諧。諡は忠武。宣祖9(1576)年武科に及第。同24年全羅左道水軍節度使となり,亀甲船を創作するなど軍備拡充に努めた。翌年壬辰の倭乱(→文禄・慶長の役)が起ると,水軍を率いて玉浦,閑山島,釜山浦などで日本水軍を撃破,制海権を掌握。この功により水軍統制使に任命された。同30年元均の誣告で官職を奪われたが,同年日本軍の再侵略に際し,元均が閑山島の海戦で敗れたのち,再び水軍統制使になり,明の水軍と協力して日本水軍を破った。しかし同31年露梁の海戦で流弾に当り戦死。左議政,のちに領議政に追贈された。 (引用元 コトバンク)