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徽宗(きそう)

北宋第8代皇帝[北宋]

(紹興5年4月21日没)

(ユリウス暦) 1135年 6月4日 死去享年54歳

徽宗 - ウィキペディアより引用

『徽宗 (宋)』より : 徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。
諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。
諱は佶。
第6代皇帝神宗の六男(第11子)。
芸術面では北宋最高の一人と言われる。
生涯 即位と治世 元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。
宰相章惇ら重臣は趙佶の皇帝としての資質に疑念を抱いていたため他の皇子(簡王趙似など)を皇帝に推したが、皇太后向氏の意向により趙佶に決まったとされている。
治世当初は向氏が垂簾聴政を行ったとされ、章惇・蔡卞ら哲宗時代の急進的な新法派を退け、旧法派の韓忠彦と穏健新法派の曾布を起用、彼らは新法・旧法両派から人材を登用して新法旧法の争いを収め、福祉政策を充実させるなど漸進的な改革を進めた(通説ではこれらの政策は向氏の策とされているが、徽宗自身の構想とする異説もある)。

北宋の第八代皇帝。姓諱は趙佶(チョウキツ)。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。金国に攻め滅ぼされ帝位を剥奪された時期には、天水郡王と称された。 元豊5年10月10日(西暦1082年11月2日)、第六代神宗皇帝の第十一子として平民出身の欽慈皇后陳氏との間に生まれる。陳氏の神宗に対する愛情は尋常でなく、1085年に神宗が崩御してまもなく、追いかけるように病死している。このとき、趙佶3歳であった。以後向皇太后を母として敬愛、向皇太后も趙佶に並々ならぬ愛情を注いだ。1083年1歳で遂寧郡王に就き、王セン(言先)、趙令穣、呉元瑜、高俅らと親交、彼らから書画詞琴や蹴鞠、騎馬、狩猟を習い、特に書画では幼いうちから頭角を現す反面、彼らの影響で好色で放蕩な性格となる。趙佶の放蕩ぶりは即位時には宮中に広く知れ渡っていたようだ。1096年哲宗の命で端王に就任、1100年兄哲宗が若くして崩御した際哲宗に世継ぎが居なかったため、章惇ら旧法派の大反対を受けながらも向皇太后の強い推薦で趙佶が即位、1125年金国に攻め入られた際に慌てて「己を罪する詔」を出して長男趙桓(欽宗)に譲位するまで、25年にわたり在位する。1126年、金は開封を陥落させ、徽宗は欽宗とともに金に連行され(靖康の変)、1135年、五国城(現在の黒龍江省依蘭県)で捕虜の身のまま54歳で病死。死後7年経って彼の遺体が南宋の都、臨安府(現在の浙江省杭州市)に帰ることを許され、同所に埋葬される。元号は以下の通り。 建中靖国:1101年 崇寧:1102年 ― 1106年 大観:1107年 ― 1110年 政和:1111年 ― 1118年 重和:1118年 ― 1119年 宣和:1119年 ― 1125年 …… (引用元 Hatena Keyword)