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板谷波山 氏(いたやはざん)

陶芸家[日本]

1963年 10月10日 死去享年91歳

板谷波山 - ウィキペディアより引用

板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。
本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。
号は、始め「勤川」、のち「波山」。
「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。
日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。
理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。
陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
生涯 のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。

陶芸家。 明治5年(一八七二)〜昭和38年(一九六三)現在の茨城県筑西市に生れ、東京で没。本名は嘉七。 明治27年東京美術学校彫刻科を卒業。29年石川県工業学校木彫科主任教論として金沢に赴任。31年彫刻科の廃止のため陶磁科を担当し、陶芸を本格的に研究。36年東京田畑に築窯、波山と号して作陶の道に入った。39年初窯焼成。以後、日本美術協会展、東京勧業博覧会展などに出品して頭角をあらわした。42年日本美術協会委員。昭和2年第8回帝展に第4部(工芸美術)の新設にともない委員、審査員をつとめた。また同年には東陶会を主宰。3年第9回帝展『彩磁草花文花瓶』が帝国美術院賞を受賞。翌4年帝国美術院会員。9年帝室技芸員。28年文化勲章を陶芸家としてはじめて受章した。35年重要無形文化財保持者に認定されたがこれを辞退。 白磁、青磁、磁彩など器形、文様、釉色から格調の高い名作を遺した。また新しい釉法の工夫、特色のある彫刻模様に独自の作風を示した。代表作は『彩磁禽果文花瓶』『葆光彩磁花卉文壺』。 (引用元 Hatena Keyword)

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