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宗祇(そうぎ)

連歌師[日本]

(文亀2年7月30日没)

(ユリウス暦) 1502年 9月1日 死去享年82歳

宗祇 - ウィキペディアより引用

宗祇(そうぎ、応永28年〈1421年〉 - 文亀2年7月30日〈1502年9月1日〉)は、室町時代の連歌師。
号は自然斎、種玉庵。
姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。
生国は、紀伊 とも近江とも言われている。
市川文書に応永9年(1402年)信濃国を幕府領国と定め、飯尾左近将監爲清という人物を代官として下向させた旨の記述があるが関連は不明である。
人物= 姉小路基綱、宗長、宗碩、宗牧、猪苗代兼載、近衛尚通、肖柏に古今伝授を行ったとされる。
また、大内政弘の庇護を受けた。
『筑紫道記』を著した。
肖像が複数残り、国立歴史民俗博物館の寿像は重要文化財で、図上には宗祇より古今伝授を受けた三条西実隆が着賛する。
ボストン美術館には狩野元信の花押がある騎馬図(外部リンク)を所蔵し、また柿本人麻呂像に倣い脇息にもたれ団扇を持つ坐像がいくつか知られる(奈良県立美術館、藤田美術館など)。
文安5年(1448年)信濃国姨捨山を訪れ武水別神社神官邸で連歌会(法楽歌)に参加。
          この年蜷川新右衛門親当が死去。
享徳3年(1454年)山名宗全と共に但馬国に下向した宗切を追う。
長禄4年(1460年)この頃から摂津国堺の宗友と交友。
寛正4年(1463年)尾張国丹羽郡犬山郷政所にて何舟百韻。
寛正6年(1465年)大和国奈良に下向。
興福寺大乗院に尋尊を尋ね、北畠氏も尋ねる。
文正元年(1466年)閏2月に吉野に花見して帰途、奈 ……