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歌川広重(うたがわひろしげ)

浮世絵師[日本]

(安政5年9月6日没)

1858年 10月12日 死去コレラ享年62歳

歌川広重 - ウィキペディアより引用

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代末期の浮世絵師。
本名は安藤重右衛門。
江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。
かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
歌川豊広の門人。
広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。
幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。
文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。
同年12月には父も死去。
幼い頃からの絵心が勝り文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。
しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1776年-1828年)に入門。
翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用して武者絵や美人画を描いた。

うたがわひろしげ [生]寛政9(1797).江戸[没]安政5(1858).9.6.江戸江戸時代末期の浮世絵師。幼名は徳太郎のち重右衛門。文化6(1809)年両親を失い,家職の八代洲河岸(やよすがし)火消し同心を継いだが,画家を志し同8年歌川豊広に師事,翌年歌川広重と称した。家姓の安藤広重の名も通用している。別号は一遊斎,一幽斎,天保3(32)年から一立斎,同13年頃から立斎。豊広のほか,狩野派を岡島林斎に,南画を大岡雲峰に習い,四条派,西洋画法も学ぶ。最初は美人画,役者絵,草双紙挿絵などを描く。天保3年,幕府八朔御馬(はっさくおうま)献上の一行に加わり東海道を旅行。このとき写生した道中の風景,風俗を基に翌年から保永堂版『東海道五拾三次』55枚を発表,出世作となる。その後37種類の東海道シリーズを描くが,保永堂版を凌駕する作品はない。さらに『京都名所』(34),『浪花名所図会』(34),『江戸近郊八景』(37),『木曾海道六拾九次』(37),『名所江戸百景』(56~58)などを出版,風景画家として名声を博す。花鳥画,肉筆画にも才能を示し,門人も多く,没後も広重の名は襲名され,3代まで続いた。 (引用元 コトバンク)